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その山の頂がこの大地の境界で、その向うは底なき絶壁になっていて、その向うに恐ろしいもの、地獄とか極楽とかいう覗いたら目が廻りそうなものが、あるような想像をしていた。そしてそれは、ただ漠たる幼い幻想とまた祖母の寝物語りとから、いつのまにか出来上ったものらしかった。その気持ちが、今また、巡礼者等の鈴の音が消えてゆくのをきき乍らぼんやり眼を向うの山の頂にやっている今、彼の心に蘇って来た。
普通の小説の特色の1つはフィクションにあるが[歴史小説の類は別に考えるとして]、エッセイの特色はこれに反してそのアクチュアリティにあるだろう。いずれも夫々のリアリティーを有つのではあるが、エッセイが身辺的なもの[これが多分今日の『随筆』だろう]であれば、リアリティーは個人的なアクチュアリティーであるのだが、エッセイが社会的なものであり、即ち社会時評であれば、リアリティーは社会的なアクチュアリティー、即ち社会現象に他ならぬというわけだ。
ピチチリピチチリ
アメリカ映画はどんどん入ってきます。
し方さえ、誠実で着眼点が芸術的に真実ならば、ニュースや写実そのものが、そのままで人を考えさせるに充分だろう。吾々はここに世界を見聞きすることの怡びを有つのだ。この怡びは非常にビジネススタイル的なものだ。
ある田舎に母と子とが住んでいた。そしてある年の秋、次のようなことがあった。……
『おや、あなたもお手伝いですか。いま、奥さんから、さんざん自慢されたところです。』
朝食の時、妻の話に、今朝もまた新しい刑事が2人來て、出入り商人に就いて何か聞き込みはないかと尋ねたそうだ。〇日ほど前に家の半町ほど先に起った女中殺しのためだが、住み馴れて既に2〇6年、東京市内にもこんな閑靜な好ましい屋敷町はそうあるまいと思つていた−『思つていた』は底本では『思つつていた』ほどの町内も、あの騷ぎですつかり臺無しにされた感じ。不快この上もない。袋地の奧にある自分の家、出入りの度毎に厭やでも眼に著くのだが、古い日本家を洋風まがひに造りなほした、そう言へば如何にもそれらしい變に陰気臭い感じの小住宅で、殺された女中の可憐な1田舍娘らしい容姿もぼんやり自分の頭に殘つている。それにしても、近頃盛に探偵小説を愛讀する自分だが、小説の上ではスリリングな殺人事件も現實に近所に起つてみると甚だ以て有り難くない。いや、實に厭やな気持だ。
プロレタリア文学運動に加えられた野蛮な圧迫をおそれ、圧迫をさける1つの逃げ道としてばかりあつかわれた日本の当時の動きはもとより『自我』をまもるどころではなかった。
千枝子が戻って来た。美しい青磁の鉢を持っていた。その鉢に彼女は、灰まみれの焼芋を盛りこんだ。芋は鉢にはいりきれなかった。
それに視覚といっても今日のトーキーで充される官能は、高々平面的な形と陰影と動きとだけであって、立体もなければ色彩もない。トーキーによって映画が本質的な飛躍をなしたことも、今日のトーキー映画の視覚上の大きな制限も知らないではないが、にも拘らず今日の映画は、すでにそして何より、視覚の官能を満足させる。トーキーになってから映画が俄然面白くなったわけではなく、面白みの基調はすでに無声映画時代からあったのだ。
しかし本当はこれではいけないのではないかと思う。詩人は、精神の純粋を考へると共に、肉体の純粋も同時に考へて、救はれながら食はうと努めなければならないものではないだらうか。
なんといっても、根が無口な百姓だ。百姓のずるさも持って居る。百姓の素朴さも持って居る[と考える]。百姓らしくまぬけでもある。そのくせ、ぬけめがないところもあるんだ。このせち辛い世の中に、まるで、自給自足時代の百姓のように、のんきらしく、──何を食って居るのかしらんがともかく暮して居る。

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